蔦屋さんのような版元は、現在の映画界で例えると、プロデューサー兼監督のような立場でした。強い権限を持つかわりに、企画した絵が売れなかった場合には、その分の損害を被る等、大きなリスクを負っていました。平賀源内は1780年に獄中死したと言われています。…となると写楽が活躍した頃には既にこの世にいなかったことになりますが、彼の晩年については諸説あり、後年に逃げ延びて天寿を全うしたとも言われています。源内は幅広い分野で活躍しましたが、本職は本草学(薬学、主に薬草の栽培や調合等)でした。特に当時とても貴重だった高麗人参の栽培には力を入れていて、様々な手段を駆使して中国産の苗を手に入れ、栽培しました。
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作者のコメント
蔦屋さんのような版元は、現在の映画界で例えると、プロデューサー兼監督のような立場でした。強い権限を持つかわりに、企画した絵が売れなかった場合には、その分の損害を被る等、大きなリスクを負っていました。平賀源内は1780年に獄中死したと言われています。…となると写楽が活躍した頃には既にこの世にいなかったことになりますが、彼の晩年については諸説あり、後年に逃げ延びて天寿を全うしたとも言われています。源内は幅広い分野で活躍しましたが、本職は本草学(薬学、主に薬草の栽培や調合等)でした。特に当時とても貴重だった高麗人参の栽培には力を入れていて、様々な手段を駆使して中国産の苗を手に入れ、栽培しました。